現実として、人の誕生・死は細胞ごとである。
だから、厳密に死を定義するなら、「全ての細胞の死をもって人の死とする・・・」だが、
『それでは、臓器移植も不可能』になる。
そこで、『臓器移植を可能にする為』に、「もう一歩引いた定義が求められている」訳だ・・・。
そのような論点から、
多くの方々が言う「脳死は人の死」は、半分正解である。しかし、実態としては、「心臓死も人の死」なのだ。
だから、「脳死は人の死」派は、「更に『臓器移植にとって都合が良いように』人の死を定義している」のである。
・・・・・・・。
そもそも、「人の死を決める」には、「その人としてのアイデンティティーを何処に求めるのか・・・?」が重要だ。
「その人としてのアイデンティティー」とは、言い換えれば『他人との区別』である。
姿形がどの様に変わろうとも、『その人として変わらない物事』と言えば、
「その人の人生の記憶」であり、「その記憶に基づく新たな意思等」である。
だから、「その人の人生の記憶を強く保持している細胞群」と「意思発現に関する細胞群」(実態としては、それらは綿密に連結している)をその人とするなら、ある程度の整合性が生まれる。
人体で、そのような細胞群がある部位は、脳と心臓である。
だから、
「心臓移植をすると、ドナーの趣味趣向が移ったり・・・する」のだ。
もし、
「脳移植をすれば、脳の影響が全ての身体部位に及ぶ・・・」だろう・・・。
人の死の問題は、逆から考えると少しは解り易いかも知れない。
「傷ついたり失ったりした細胞群を回復させる事が出来る」として、
回復出来た時、「その人に戻るか?」「否か?=姿形は元の人と同じでも中身は別」で判定すれば、
「脳や心臓のように、人生の記憶等が残っている部位無しなら、別人」という判断が出来る。
(因みに、『クローン人間も同様』である。)
逆に「それらの部位の細胞群が残っていれば、程度の差はあるが、その人としての再生が可能」なのだ。
老化や病気や怪我等でも、元の状態を失ってしまう場合がある事を考えれば、完全再生で無くても、『ある程度の人生の記憶群等が残っている状態での再生の意味は小さく無い』事が解るだろう。
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ドナーとされる人々に関係が濃い周囲の人々の立場から、検証してみれば、
脳死となってしまうと、心臓が動いていても、その人としての新たな意思の発現等は著しく阻害されている。
しかし、『実際に維持されている身体が、周囲の人々に与える影響は決して少なく無い・・・』のは、
野に咲く花を見るだけでも、人間の情感が反応する現実からも、良く解ると思う。
「野に咲く花」と「実際に係わりがあった人間」とでは、『比べるまでも無い』・・・。
ところが、其処に「経済が絡む」と・・・。
「お金を稼げなくなってしまった個体では、お金がかかるダケ・・・」なのだ。
「野に咲く花で心が動くのと同様に、お金でも心が動く・・・」のが多くの人間である。
「優先すべきは、お金か・・・?人間か・・・?」
『言うまでも無く、人間』である。
お金を優先した人間社会では、お金の為に人殺しさえ起きる。
つまり、『そのような状態は、治安悪化の原因となっている』のだ。
「脳死で生きている人」を養う為にかかる費用を『治安維持費と考えれば、安いもの』である。
そのくらいは税金で賄う人間社会で無ければ・・・。
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心臓移植を認めるなら、「移植を受ける人+ドナー」の「『新たな人格』として受け入れる社会」が必要である。
人体の中で、脳細胞は比較的早く死滅してしまい易いが、
将来的に、保存技術が向上すれば、
事故等の場合、「脳だけ保存出来た・・・」という事もあり得る。
「脳死=人の死」社会は、「脳移植」を認める事になる・・・だろうが、
そうなれば、「姿かたちが、ドナー」となり、「脳が移植された後は、過去の姿形を失った人」が生まれる・・・という事になる。
そのような場合でも、「心臓の記憶が生きるから、脳&ドナーの新たな人格が誕生する」事になる。
・・・将来的見通しからも、「脳死=人の死で、心臓移植も可・・・なら、心臓移植だけは別扱い」が正解だろう・・・。
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「年齢制限撤廃」は、未だ良いのだが、「家族の意思」『偏重』は『大いに疑問』だ。
「家族の意思など医者等の誘導でどうにでも変わる」・・・。
例え、どんなに幼くても、『その人の身体はその人の物』である。
意思表示可能な年齢には個人差があるだろうが、
「意思の変更を認める事を前提」に、
『出来る限り個人の意思に委ねるべき』だろう。
それこそ、「幼少期から、臓器移植の話しをして、個人の意思を確認する家庭があっても」、
「小学校から、臓器移植についてのお勉強&意思確認・・・」でも、良いと思う。
そのような物事を考える事は、『自分の実体を知っていく為にも有益』である。
決して、忌み嫌われるべき事では無い。
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また、現状の脳死判定の事も忘れてはいけない。
現状の脳死判定は、例えて言うなら、始まってから少し経った後のDNA鑑定のようなものである。
初期のDNA鑑定で冤罪事件が生まれてしまったのと同様に、
『生きているのに死亡判定が出されてしまう可能性も否定出来ない』。
微弱な脳波など測り方や使用機器の能力等で結構変わってしまうものなのだ。
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「参議院では、どの様な判断が示されるのだろうか・・・?」
国会議員なのに・・・、
もう少し「慎重に」「現実的に」考えて頂きたい方々が多い・・・事が哀しい・・・。
「臓器移植で救われる命」や「死生観」等という『一番上辺の物事だけに拘っている』様では、
「国の先々を委ねる事」に「大いなる不安」を感じてしまう・・・。